ヘンリー・ニュートン(Henry Newton)

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チャールトンハウス画像資料 さて、チャールトン・ハウスを建設したアダム・ニュートン(Sir Adam Newton, 1st Baronet)をこのブログに書いてから間が空いてしまいましたが、チャールトンに縁のある人物として、彼の次男であるヘンリー・ニュートン(Sir Henry Newton, 3rd Baronet)について書きます。
誕生
 ヘンリーは、アダムの項でも書きましたようにエリザベス1世時代の国璽詔書であったジョン・パッカリングの末娘であるキャサリンを母として1618年4月13日に誕生しました。両親の結婚後13年も経った後、チャールトン・ハウス完成から6年後のことです。
弁護士資格
 彼は父親のアダムが亡くなった翌年の1631年に、13歳でインナー・テンプルInner Temple)に在籍を許され、翌年にはケンブリッジで学士を取得しました。
 インナー・テンプルとは、法廷弁護士(barrister)を養成する施設なのですが、ヘンリーの年齢を見ても想像できるように、貴族や金持ちの紳士階級の子弟がいわば法廷弁護士の権利を手に入れる場所でした。ヘンリーは次男でしたから、おそらく父親が亡くなる前に将来を保証するために法廷弁護士の道を授けようとしたものと思われます。国王ジェームズ1世がスコットランド王ジェームズ6世であったころから密着して恩恵を被ってきたアダムらしい処世術と言えます。
 インナー・テンプルは現在でも存在して法廷弁護士の養成・認定に大きな権限を持っています。英国の弁護士制度は日本とは違い、法廷弁護士と事務弁護士に別れています。仕事の内容も違うのですが、身分も法廷弁護士は上流階級に属するとみなされ、事務弁護士は中流階級に属します。私たちが日常に不動産売買などの契約締結事務、ビザ取得の事務などを依頼するのは事務弁護士です。関連して訴訟を起こす場合も事務弁護士が法廷弁護士に依頼する形で法廷に持ち出すことになります。つまり、ニュートン家が得意とした国王を頂点とする貴族階級に寄生して権益を享受するという形が今でも存続しているということです。
 父親のアダムは自身がチャールトンに建て、現在もそのまま残る聖ルーク教会(St Luke's Church)に今も眠っています。その後、ヘンリーは長兄であるウィリアム・ニュートンが亡くなったために、準男爵の爵位とチャールトンの領地を引き継ぎましたが、アダムが望んでいなかった展開が待ち受けていました。
内乱(Civil War
 既に、イングランドでは王権は議会から制限をうけていましたが、スコットランドから来たジェームズ1世と、その子チャールズ1世は自らの力を過信して「王権神授説」という当時としても時代錯誤な主張を掲げて議会と対立し、内乱が勃発することになったのです。この動きは独りイングランドだけのことではなく、ガイ・フォークスの事件で顕著なカトリックへの警戒感があるなかでカトリック国であるフランスやスペインなどとの関連した世の中の混乱の一部です。
 さて、この内乱にヘンリーもエッジヒルの戦いBattle of Edgehill)に王党派として参戦しました。最終的にはクロムウェルなどの議会派の軍隊が優勢となって、チャールズ1世が処刑されると、ヘンリーも裁判で1273ポンドの罰金刑を受け、チャールトン・マナーを手放すことになりました。
 父親のアダムが、ここを4500ポンドで購入したことと比較すれば、かなりの額の罰金ですが、国王が処刑されたにもかかわらずその傘下で参戦した貴族であるヘンリーが罰金刑でしかなかったことは、私には興味深いことです。

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このページは、安永が2011年12月 8日 07:54に書いたブログ記事です。

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