安永 利右衛門

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博多小女郎.jpg 私のロンドンにおける自宅の近所に、ロシアのピョートル大帝の足跡を見出した話を以前に書きました。ピョートル大帝は17世紀の終わりから18世紀初頭に活躍したひとですが、ちょうどこの時期に私の先祖である安永利右衛門も私たち子孫にとっては大きな転身を遂げていました。

 私の祖先はさらに遡る16世紀の初めごろに既に安永を名乗り始めています。その二代目である安永但馬守重勝が、筑前国鞍手郡黒丸村(現在の福岡県鞍手郡若宮町黒丸)に天文18年(1549年)に城を構えました。そこには135年間に亘って9代が住み、我が一族の始祖となりました。
 重勝から利右衛門は9代目で135年、ということは一世代15年足らずという計算になり、ほぼ一世代30年で計算できる現代にくらべて、半分でしかないことになります。当時は非常に寿命が短かく早婚であったことが想像できます。
 安永良徳は「構造社」の斎藤素巌を尊敬していた。斎藤は東京美術学校の西洋画科を出てイギリスに渡ったが街の至るところにあるすばらしい彫刻を見てロイヤル・アカデミーで彫刻の勉強をはじめたという変わった経歴の人である。
 のちに日名子実三らと彫刻だけの創作集団である「構造社」を創設した。安永は昭和六年以来、構造社の会員でひところは池袋の安永のアトリエが構造社の事務所になっていた。
 美校を出て「構造社展」にはじめて出品したころの安永のことを斎藤素巌はこう書いている。
 「昭和五年九月、当時日本で唯一の在野彫刻家団体・第四回構造社展に安永良徳という新人が参加出品してきた。その作品は、何か地中から発生した生物のような、それまでの彫刻的概念では見当のつきにくいような作品で、受け付けた会員一同が目を見はったものである」

コーヒー

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 ロンドンに行っても、日本に帰ってきてからもコーヒーを飲む習慣は相変わらずです。校生の頃に今も多分ある天神の裏のほうのベスト電器でコーヒーミルを買ったことを覚えていますから、もう45年ほどになる習慣でしょう。
 大学生のころからつい4、5年前までは豆を買って挽くのが飲むより楽しみなくらいだったのですが、嗜好も変わって、味にも鈍感になったものと思われますが豆を粉に轢いたものを買ってきて飲んで、十分に満足するようになっています。

 淹れる道具も変化していまして、昔はネルの袋で淹れていましたから袋の管理が難しく、いいかげんにしてるとすぐに風味が悪くなって困ったものですが、いつのころかもう20年以上もなるでしょうか、濾紙で淹れる様になっています。

英国でコーヒーは飲まれるか
 ロンドンに行ったら誰でも思うように、紅茶を飲むことが多く、家族も私のためにコーヒーは一応買ってくれていましたが、淹れるのに茶漉しに濾紙をセットするという不自由な方法で数ヶ月やっていました。というのも、ロンドンのスーパーにはコーヒーフィルターが売っていないのです。濾紙を売っているのにフィルターがないというのは非常に不思議ですが、実際そうなんです。

 実際にフィルターを買ったのはパリに観光旅行に行ったときで、パリではどのスーパーにもありました。英国でもコーヒーはよく飲まれているように感じますが、このことからも、やはり紅茶ほど一般的ではないと思われます。

 そして、フィルターのサイズは、日本では2-4人用のサイズが一般的で、どのスーパーでも売っている濾紙はこれだと思います。ところが、英国でも、欧州でも少なくともパリやブリュッセルではもっと大きなもので、安価な大袋は全てそういうサイズです。

 このことから推測するに、日本ではお茶やコーヒーは自分のためかせいぜい夫婦のために淹れますが、英国ではもっと多人数でお茶を飲むことが多いのではないでしょうか。家庭に人を呼ぶことが多いことが関係しているかなと思われます。そして、自分が飲むのは紅茶、大勢集まったときにはコーヒーも出すって感じですかね。


チャールトンハウス画像資料 さて、チャールトン・ハウスを建設したアダム・ニュートン(Sir Adam Newton, 1st Baronet)をこのブログに書いてから間が空いてしまいましたが、チャールトンに縁のある人物として、彼の次男であるヘンリー・ニュートン(Sir Henry Newton, 3rd Baronet)について書きます。
誕生
 ヘンリーは、アダムの項でも書きましたようにエリザベス1世時代の国璽詔書であったジョン・パッカリングの末娘であるキャサリンを母として1618年4月13日に誕生しました。両親の結婚後13年も経った後、チャールトン・ハウス完成から6年後のことです。
弁護士資格
 彼は父親のアダムが亡くなった翌年の1631年に、13歳でインナー・テンプルInner Temple)に在籍を許され、翌年にはケンブリッジで学士を取得しました。
 インナー・テンプルとは、法廷弁護士(barrister)を養成する施設なのですが、ヘンリーの年齢を見ても想像できるように、貴族や金持ちの紳士階級の子弟がいわば法廷弁護士の権利を手に入れる場所でした。ヘンリーは次男でしたから、おそらく父親が亡くなる前に将来を保証するために法廷弁護士の道を授けようとしたものと思われます。国王ジェームズ1世がスコットランド王ジェームズ6世であったころから密着して恩恵を被ってきたアダムらしい処世術と言えます。
 インナー・テンプルは現在でも存在して法廷弁護士の養成・認定に大きな権限を持っています。英国の弁護士制度は日本とは違い、法廷弁護士と事務弁護士に別れています。仕事の内容も違うのですが、身分も法廷弁護士は上流階級に属するとみなされ、事務弁護士は中流階級に属します。私たちが日常に不動産売買などの契約締結事務、ビザ取得の事務などを依頼するのは事務弁護士です。関連して訴訟を起こす場合も事務弁護士が法廷弁護士に依頼する形で法廷に持ち出すことになります。つまり、ニュートン家が得意とした国王を頂点とする貴族階級に寄生して権益を享受するという形が今でも存続しているということです。
 父親のアダムは自身がチャールトンに建て、現在もそのまま残る聖ルーク教会(St Luke's Church)に今も眠っています。その後、ヘンリーは長兄であるウィリアム・ニュートンが亡くなったために、準男爵の爵位とチャールトンの領地を引き継ぎましたが、アダムが望んでいなかった展開が待ち受けていました。
内乱(Civil War
 既に、イングランドでは王権は議会から制限をうけていましたが、スコットランドから来たジェームズ1世と、その子チャールズ1世は自らの力を過信して「王権神授説」という当時としても時代錯誤な主張を掲げて議会と対立し、内乱が勃発することになったのです。この動きは独りイングランドだけのことではなく、ガイ・フォークスの事件で顕著なカトリックへの警戒感があるなかでカトリック国であるフランスやスペインなどとの関連した世の中の混乱の一部です。
 さて、この内乱にヘンリーもエッジヒルの戦いBattle of Edgehill)に王党派として参戦しました。最終的にはクロムウェルなどの議会派の軍隊が優勢となって、チャールズ1世が処刑されると、ヘンリーも裁判で1273ポンドの罰金刑を受け、チャールトン・マナーを手放すことになりました。
 父親のアダムが、ここを4500ポンドで購入したことと比較すれば、かなりの額の罰金ですが、国王が処刑されたにもかかわらずその傘下で参戦した貴族であるヘンリーが罰金刑でしかなかったことは、私には興味深いことです。

peter the great 私のご近所チャールトンにまつわる人物のことを調べてまわっているうちに面白い人物に行き当たりました。左の惣明そうな顔をした写真の人物ピョートル大帝(Peter The Great,Пётр Вели́кий)です。1672年から1725年までを生きたロシア帝国の文字通りの祖といえる人物です。
 世界史に興味があれば、ロシアの皇帝といえばイワン雷帝、ピョートル大帝と記憶に残るっていると思いますが、実際にロシアを帝国と呼ばせたのはこのピョートル大帝が最初です。

 さて、ロンドンの郊外に住む私がなぜロシアの皇帝について知ることになったのか、そのきっかけはチャールトンハウスについてこのように書かれていることをオープンハウスの資料で知り、その著者の足跡を辿ったからです。
Three hundred years ago the diarist John Evelyn described the prospect from Charlton House as 'one of the most noble in the world, for city, river, ships, meadows, hills, woods and all other amenities.'

思い出す事など

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夏目漱石肖像 つい先日、夏目漱石の「思い出す事など」を読みました。これは1910年(明治43年)に伊豆で胃潰瘍で出血の発作を起こし危篤状態に陥ったときのことを回想したものです。
 夏目漱石の著書はまだ子供のころに主なものを読んだだけで、面白いことを書く人だくらいの認識しかありませんでしたが、今回ロンドンに来て彼の足跡を辿ってからは興味をもって読むようになりました。このブログでも、彼が五ヶ所も転々としたロンドンでの下宿跡について書きました。

 母から譲り受けた文学全集のなかからあらかじめ夏目漱石の作品だけロンドンに持参しましたが、青空文庫という非常に立派な無料で公開されているネット上の書物があることに気付きましたので、実際にはそれを読んでいます。

ピカデリーベテランカー 2011年11月6日(日}にロンドン・ブライトン間の古車の走行会(2011 London to Brighton Veteran Car Run)が開催されました。そこで、朝の7時に出発地であるロンドン中心部のハイドパーク・コーナーにでかけてきました。
 私の家はロンドン南東部のグリニッジ区にありますから2時間前の5時に起床してバスで出かけました。

 今回が78回といいますが、最初は19世紀から開催されている走行会です。これは"Locomotives on the Highway Act"が1896年11月14日(土)の通過を記念してこの開催されたのが始まりといわれていますが、そのときはリストアップされた58台のうち13、4台しかブライトンまで着かなかったという歴史があります。

 この壮行会に先立って、関連イベントとしてリージェント・ストリート・モーターショーも開催されて、ミニやジャガーEタイプなどが多数展示されました。今回は電気自動車の日産リーフも展示されましたが、そこでもそういう車に混じってこのようなベテランカーが大挙走行しているのは壮観で、さすが英国と感じさせられました。

guy-fawkes-mask 今日2011年11月5日(土)はガイ・フォークス・デイです。これは英国では有名な火薬陰謀事件Gunpowder Plot)を記念する日です。これは、わがチャールトンにも非常に関係が深いのです。それは、チャールトン・ハウスを建てた人物として紹介したアダム・ニュートンがスコットランドからイングランドに帰化した正にその年1605年に起きた事件なのです。
 何度か書きましたように、そのときスコットランド王ジェームズ5世がジェームズ1世としてイングランドも統治したので、そのときの英国内の複雑な政治宗教関係が反映した事件なのです。
 詳しくは省くとして、爆薬を国会議事堂地下にしかけたことが発覚してガイ・フォークスは処刑され、それを記念して今でも11月5日はガイ・フォークス・デイ(ガイ・フォークス・ナイト)、ボン・ファイア・ナイトなどと言われて準祭日扱いで、現在では花火大会の開かれる日になっています。

 私の居住地域のブラックヒースでもロンドン地区でも有名な花火大会があります。今はちょっと雲っていますが、雨が降らなければ是非見に行こうと思っています。
 
 
ムーラン・ド・ラ・ギャレット 旅行の楽しみは旅行中だけじゃなくて準備と思い出の整理にもありますが、今回は準備をしてなかっただけ発見の面白さがありました。特にモンマルトル界隈の雰囲気は期待していなかっただけに嬉しい驚きがありました。

 旅行から帰って、グーグルの地図を見ながら家内の記憶だけで歩いたモンマルトルの小道を辿っていると「あ、これだ!」と思いあたった場所が、この「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」です。
 「ムーラン・ルージュ」はよく記憶した名前でしたし、ロートレックのポスターもよく記憶していましたから地図を片手にそこを目指して丘を降りていったのですが、その途中で見かけたのがこの一風変わった建物だったのです。

 あまりにも奇抜なので、画廊かなにかかなと思って覗いたら、メニューがり、それで「レストランか」と納得したのですが、観光客が何人も記念写真を撮っていたのが気になりました。変わった珍しい概観なので記念に写真を撮ってるんだろうと思って私も一枚撮ったのがこの写真です。
モンマルトル遠景 先に書きましたように、ロンドンからパリに着いて北駅の近所にあるホテルに荷物を預けてから最初に家内が連れて行ってくれたのはモンマルトルです。今回のパリ旅行について、全く何の下調べもせず旅行書の類も見なかった私にも聞き覚えのある名前でした。
 丘の頂上にはサクレ・クール寺院があるのも特徴ですが、モンマルトルの魅力はこの寺院にあるわけではありませんが、パリの風景には欠かせないものとなっているようです。写真はエッフェル塔の最上部から撮ったもので、モンマルトルの高さがあまり目立たなくなっていますが、それでも広大なパリの風景の中で異彩を放って目立つものでした。

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